駒の話シリーズ 49:宮古馬
沖縄県の宮古馬(ミャークヌーマ)は長崎県の対州馬と並んで個体数が少なく、危惧が危ぶまれている日本在来種である。沖縄県の地元紙の琉球新報や沖縄タイムズなどの報道でその宮古馬の数を見ると、
1976年5月 6頭、同じく10月 11頭、
1977年12月 14頭
1979年6月 11頭
1980年1月 14頭、同じく8月 11頭
1982年11月 10頭
1983年1月 8頭、同じく7月 6頭、同じく9月 7頭
1990年1月 14頭
2006年12月 25頭(宮古島外での飼育を除く)
2009年12月 33頭
2011年12月 34頭(農林水産省家畜センター十勝牧場などの宮古馬を含む)
である。
琉球王朝は中国の明や清に対して馬を重要な輸出品としていたし、薩摩の島津藩からは年貢の1種(名目は献上馬)として収奪されていた。この当時の琉球の馬の主要な生産地が宮古島とされている(東恩納寛惇『南島風土記』)。その理由として、宮古島は沖縄本島に比べてその地形が平坦で馬の飼育に適していたとされる。
昭和58(1983)年2月、滅びゆく宮古馬の救世主とされていた「太平号」(オス、当時日本の在来馬で最高齢、今日剥製として残されている)が死亡した。そこで宮古馬保存会は、京都大学の野澤謙教授の生化学的分析で明らかとなっていた宮古馬と同系統の粟国馬の導入を企画した。同年9月、粟国島のメス馬(6歳)を買い取り、宮古島へ那覇経由で搬送した。粟国馬は明治の末から大正の始めにかけて、宮古島から粟国島へ移入されていた。天の配剤と言うべきか、この粟国島のメス馬のおかげで宮古馬は絶滅に危機を脱し徐々に個体数を増やしつつある。
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