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駒の話シリーズ 63:円仁と焼石駒ヶ岳

 

 仙台伊達藩が編集した地理書である『封内(ふうない)風土記』の胆沢郡西根村の項に「駒嶽は仙台と南部の境にあり、山頂に観音堂がある。この堂宇の造営、補修は仙台藩、南部藩の両者が行っている。伝えられるところではこの観音堂は嘉祥3850)年に慈覚大師が創建した」とある。駒嶽は駒形山、午の峰、駒形とも言われるとも記している。この慈覚大師の記述には大変興味深いものがある。また観音堂とは今日の駒形神社を指している。

 『封内風土記』は宝暦131763)年、仙台藩主伊達重村の命により儒臣田辺希文(16921772)が9年かけて明和91772)年に完稿させた。この完稿の年に希文は80歳で没した。希文は生前に「老齢なため現地踏査が不十分であった」ことを認め、その実施調査を息子の希元に依頼したが実現しなかった。

 慈覚大師とは天台宗第3代座主の円仁のことである。円仁は延暦13794)年下野の国都賀郡に生まれ、貞観6864)年に71歳で逝去した。円仁は東北地方を2度巡錫したとされる。最初は師の伝教大師最澄(天台宗初代座主)の東国順化に随行(弘仁8年、817)した。2度目は天長6~7829~30)年である。この2度目の巡錫の最中、天長713日に発生した出羽地方の大地震の報を聞くと円仁は救援の為に出羽に入ったとされる。このように慈覚大師と東北との結びつきは非常に太いものがある。伊沢不忍の調査であるが、東北地方で円仁の開基と伝えている寺院は140寺、中興は22寺、円仁に係る仏像などは169寺にあるとしている。このことは『封内風土記』の胆沢郡の記述でも同様である。駒嶽の観音堂の記述以外にも慈覚大師の関わりが14例ある。

 八幡村の八幡宮;嘉祥年間(848~51)に勅を受け慈覚大師が創建

 佐野村の基証誠山霊験寺;嘉祥3850)年に慈覚大師が開く

 永澤村の観音堂;慈覚大師が本尊を造る

 永澤村の薬師堂;慈覚大師が本尊銅仏を造る

 永澤村の16番札所;慈覚大師が創建

 永徳寺村の熊野神社;慈覚大師が本地仏を造る

 相去村の平城山観音;慈覚大師が本尊を造る、何時かは不詳

 西根村の鶴峯熊野神社;本地仏の銅像は慈覚大師

 西根村;駒形山の山麓の廃寺は慈覚大師の開基であった

 上姉礼村の城服山新山寺;勅を受け嘉祥3年創建する、自作の聖観音を安置する

 前澤村の観音堂;本尊は慈覚大師の作、何時かは不詳

 上衣川村の薬師堂;嘉祥中に慈覚大師が創建

 下衣川村の月山権現社;嘉祥3年慈覚大師が勧請

 下衣川村の荒澤権現社;嘉祥3年慈覚大師が勧請

 以上の記述で年号が明確なのは嘉祥3年か嘉祥年間である。では嘉祥3年の円仁(57歳)を略年賦で見ると

 2月;仁明天皇の不予により仁寿殿で文殊八字法を修する

 3月;清涼殿で七仏薬師法を修す

 4月;惣持院を建立したいことを要請する

 9月;惣持院に14僧を置くことが認められる

 12月;延暦寺に金剛頂経および蘇悉地経業の年分度者2人を加えることが勅許される

となっている。嘉祥3年に円仁が東北の地にいたことはあり得ない。

 では慈覚大師円仁がこれ程までになぜ東北に登場するのであろうか。

 山形市にある通称山寺の宝珠山阿所川院立石寺は寺伝で開山(貞観2年、860)を円仁、開祖を円仁の弟子の安恵(やすね)としている。そして「慈覚大師の遷化の後、(山寺の)岩窟に尊体を納め奉る所なり」(『立石寺貫主記文』)ともしている。安恵(794~868)は円仁についで天台宗の第4代座主であり伝燈法師である。安恵は承和11844)年から6年間出羽の国の講師(こうじ)として赴任している。この間安恵は出羽一帯が法相宗であったのを、広く天台宗に帰衣させた。いわば円仁が東北巡錫でまいた種を、安恵が刈り取ったと言える。円仁と安恵の共同布教が、円仁に収斂され、いずれの開山、創建などすべてが慈覚大師とされたのであろう。

 宗教学者の山折哲雄は「東北地方における慈覚大師の伝説は、何らかの形で征服された土地の霊と犠牲になった人びとの死霊を祈り鎮めるための宗教政策が反映しており、そこに東北の地を中央の権力が掌握していくなかで生みだされた政治と宗教の相互補完的な関係がある」とし、「犠牲者は蝦夷(えみし)ばかりでなく、下野など東国から移住させられた民衆、逃亡者などを含む」ともしている。
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