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駒の話シリーズ 65:『扶桑略記』の馬

 

 『扶桑略記』とは比叡山の僧皇円が編纂したとされる私撰の歴史書であり、平安時代の1094年以降に成立した。この書の性格は総合的な日本仏教史であるが、六国史(『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後記』、『続日本後記』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』)の抄本的な役割を担っている。

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 この『扶桑略記』の養老2718)年814日条に「出羽(なら)びに渡嶋の蝦夷87人来り、馬千匹を貢す。即ち位禄を授く」とある。東北北部(岩手、秋田、青森一帯)の馬の史料としてはこの記事が最も古い。この記事の出羽は今日の秋田県から青森県の地域、渡嶋は津軽半島辺から北海道の渡島半島辺と解されている。そこで、もしこの記述が正しいとすると奈良時代の北海道に馬がいたことになる。本当にこの記述は正しいのであろうか、馬の渡来の道として「北方の道」説も有り、その正否を検証する。

 まず移動距離であるが、仮に渡嶋を青森とすると、青森から奈良までの鉄道距離は約1270kmである。千匹の馬の移動は海路か陸路のどちらであろうか。次に蝦夷の読み方であるが、エゾ、エミシ、エビスなどの説があり、更にはアイヌと混同した説も有る。記述通りに、出羽や渡嶋に当時馬がいたのであろうか。

 馬の倭(今日の日本)への渡来は大陸、朝鮮半島からで4世紀代である。馬の遺骨、歯の出土で最も古いのは甲府市の塩部遺跡であり、4世紀第3四半期である。4世紀中ごろ以前に北部九州辺りに渡来した馬は、その有用性からまたたく間に北上している。そして東北北部では岩手県奥州市の中半入遺跡(5世紀後半)から歯が、同じく山田町の房の沢Ⅳ遺跡(7世紀末~8世紀前葉)から頭骨と歯、青森県八戸市丹後平古墳群(7世紀末~8世紀前葉)から歯が出土している。馬具では八戸市鹿島沢古墳群から7世紀中葉の杏葉が出土している。4世紀中ごろまでに北部九州に上陸した馬は、東北北部に100年と少しの間で到達している。勿論馬が単独で来るわけはなく、馬を飼育、制御する人々に連れられてきた。馬を要にした高度の外来の文化は、当時の日本列島に衝撃を与え、且つ急速に馬の北上を促したのであろう。

では北海道ではどうであろうか、最も古いので上之国町勝山館跡から出土した歯と中足骨は15世紀後半から16世紀末とされる。13世紀に成立したとされるアイヌ文化の華・叙事詩ユーカラには馬は登場しないし、馬と言う言葉もなかった。北海道の先住民族のアイヌが馬をウンマと呼ぶのは、ウマからの借用である。シチリア島出身のイエズス会の司祭のアンジェリスが1618年と1621年松前を訪れ蝦夷島についての報告書(『第異界1回蝦夷国報告記』)を残しているが、史料としての馬の記述はこれが最も古く「松前から上之国まで馬運が可能」との記述がある。これらの事実から『扶桑略記』の養老2年の記述の頃に北海道に馬はいない、従がって渡嶋に北海道は含まれなく、渡嶋は青森県の一部のみである。馬の渡来の「北方の道」説は成立しそうもない。

当時の東北北部での馬産地は、太平洋側であった。その当時そこは、地勢から稲作に適しない土地であった。その土地は火山灰土であり、火山灰系の黒ボクは稲作に適さない、その黒ボクに蕎麦などの雑穀の植生に伴って馬の好物のササやススキも生えてくる。この条件が馬産に最適であった。東北北部に千頭の馬はともかく、一定の馬は生産していた。

馬の生産数はともかく、8世紀後半の馬の関する史料がのこされている。『類聚三代格』(11世紀に書かれた法令集)の延暦6787)年正月21日格に「王臣及び国司ら、争いて(えびす)(うま)及び俘の奴婢を買う」とある。これは当時の朝廷(長岡京)が陸奥按察使(陸奥、出羽を管轄)に対して発した禁令である。王臣とは朝廷の高官であり、いわば密貿易で狄馬を求めていた。これは如何に東北北部の馬が優れていたかの証明である。「馬千疋を貢す」とした時から、69年後の状況である。

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