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駒の話シリーズ 66: ”倭”への馬の渡来

 2009年4月5日以来、約4年半に渡って、連載されてきた この”駒の話シリーズ” も今回をもちまして、終焉となりました。執筆者の”駒名主”さんの強い歴史認識感覚に基づいた馬、駒に対する深い洞察力によって、我がKFC会員をより一層、駒ヶ岳への愛着を推進してきた原動力となってきたのです。 

 本日、ここに最後のシリーズを皆でじっくりと堪能しようでは、ありませんか。

 

 タイトルをあえて「倭」への馬の渡来としたのは、日本列島への馬の渡来は4世紀代であり、当時の日本列島には「日本」という国号はなく『魏志倭人伝』(成立は280年・呉の滅亡~297年・著者陳寿の没年の間)や、中国吉林省集安市に残る高さ6,3mの「広開土王碑」(414

年に建立)の碑文で知られるように、当時の中国、朝鮮半島からは「倭」と呼ばれていたからである。

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 では「日本」という国号は何時ごろからであろうか。日本国内では「大宝律令」(701年)の文言「明神御宇(あきつみかみとあめのしたてらす)日本(やまとの)天皇(すめらみこと)」が最初とされる。

中国では西安(長安)から出土した百済人武将・祢軍(でいぐん)の墓誌(678年)の「大唐故威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序」の文言「白村江(663)の戦いで生き残った日本は、扶桑に閉じこもり、唐からの罰を逃れた」が古いとされている。なお、この碑文の日本を国号でなく百済の土地とする説も有る。祢軍は唐皇帝・高宗の命令で日本や新羅と外交を担当し成果を上げて、672年に右衛将軍に昇格した。また、702年の遣唐使の粟田真人を応接した唐の春宮(とうぐう)待郎の杜嗣先(712年死去)の墓誌には「(たまたま)、皇明遠く(およ)、日本来庭す」とある。さらに、遣唐留学生の真成は長安城内の官舎で36歳の若さで死亡(734)しているが、その墓誌銘に「公は姓は(せい)、字は(しん)(せい)。国は日本と号し、才は天の(ゆる)せるに(かな)う」とある。

中国の文献の多くは、倭を日本と変えたのは「日本国は倭国の別種なり、其の国日辺にあるを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰う、倭国自らその名の(みやび)ならざるを(にく)み、改めて日本と為すと長安3703)年其の大臣朝臣真人、来りて方物を貢す」(『旧唐書』倭国伝・日本伝 劉眗撰 945年成立)とあるように、遣唐使の執節使・粟田真人と唐の役人との応答を元にしている。

『唐歴』(柳芳撰 762779の間に結集)には「此歳、日本国、其の大臣朝臣真人を遣し」とあり、『通点』(杜佑編 801年頃成立)には「倭、一名日本」、『旧唐書』倭国伝・日本伝(劉昫撰 945年成立)には「日本国は倭国の別種なり」、『唐会要』巻九十九倭国(王薄撰945年成立)には「其の国日出ずる所に近し、故に日本国と号す」、『唐録』(宋敏求蒐集 1045年成立)には「日本国其の大臣朝臣真人を遣わし」、『新唐書』日本伝(宋祁撰 1060年成立)には「倭の名を悪みて更めて、日本と号す」などとある。

また『三国史記』(1145年成立)のうちの「新羅本記」・第32代考昭王7698)年3月条には「日本国使至。王、崇礼殿に引見す」とある。但し、『日本書紀』にはこの遣新羅使ついての記述はない。いずれにしても「日本国」の国号の成立は7世末である。

 馬の渡来の時期を調べるには、残されている馬の遺体(多くは歯、それに骨)と馬具を知ることである。

『古事記』の(あめの)(ぶち)(こま)神話などを根拠に縄文時代、弥生時代にも日本列島に馬が居たとの論文がある。また、縄文時代でおよそ66遺跡、弥生時代でおよそ36遺跡から馬の歯や骨が出土したとの報告があるが、何れも未熟な発掘技術段階でのものであり評価に値しない。

考古学的に馬の痕跡で最も古いとされる報告は、大阪府八尾市亀井遺跡のSD-01から出土した3世紀末から4世紀の初めとされる右上顎第3小臼歯である。しかしこの馬の歯は遊離歯、いわゆる後世に紛れ込んだ歯と判断されている。そこで確実に古いのは、山梨県甲府市塩部遺跡から出土した歯でその時期は4世紀第3四半期と報告されている。この塩部遺跡の3号方形周溝墓から下臼歯24点、切歯3点が出土した、そしてこの馬は体高125㎝で成馬、かつ祭祀で使用された犠牲馬とも推測されている。

塩部遺跡以後で馬が出土した遺跡は長野市篠ノ井(4世紀後半)、甲府市中道東山北(4世紀末~5世紀初頭)、鳥取県湯梨浜町長瀬高浜(5世紀以前)、岡山市百閒川沢田(5世紀以前)などである。5世紀に入ると各地で続々と馬の歯などが出土されてくるが、これらの遺跡をみると大阪府と長野県が際立って多いことが分る。大阪の場合、5世紀中頃から6世紀の中葉まで河内湖の東岸から生駒山山麓にかけて馬を飼育する牧が営なまれていた。長野では古墳の出土品から、朝鮮半島の各地の人々は数次にわたって渡来して信濃へ移住し、在地の住民と共同で馬を飼育していたであろうとされている。

 次に馬具であるが最も古いとされる報告は、奈良県桜井市箸墓古墳から出土した木製の輪鐙の残片である。桜井市教育委員会によると「輪鐙は4世紀初めに周壕に投棄されと推定、大量の土器とともに出土、後世の混入した可能性は少ない」、「2030年にわたって堆積して固く締まった層から出土」などとしている。この土器とは「布留1式」であり、土器の年代から輪鐙の時期を4世紀初めとしている。当時の読売新聞報道では「現存する鐙では世界最古のものとみられる」と持ち上げている。ところで輪鐙であるとの判断であるが、大阪府四条畷市の蔀屋(しとみや)(きた)遺跡出土の木製輪鐙と類似からと言う。この蔀屋北遺跡の年代は5世紀後半とされている、150年後の鐙との類似である、考古学界ではこの手の判断は有効なのであろうか。

4世紀(300年)初めから2030年を遡ると、箸墓古墳の築造年代は270280年頃となる。これ論を延長すると、箸墓古墳の築造期間は推定30年位であり、築造開始は『魏志倭人伝』での女王卑弥呼の死が248年頃とされているので、箸墓は卑弥呼の墓とする説も出てくる。邪馬台国畿内説方々には好都合であろうが、この論は少々乱暴すぎないかと思われる。『魏志倭人伝』の記述の文言「その地(倭)に牛・馬・虎・豹・羊・(かささぎ)無し」に矛盾するとの指摘多く出されている。

 箸墓古墳の成立期については考古学者の見解は千差万別であり、桜井市教育委員会の見解が認知された分けではない。報告の古い順から広瀬和雄氏(3世紀中)、白石一太郎氏(3世紀半ば過ぎ)、寺沢薫氏(280300年)、石野博信氏(3世紀後半第4四半期)、奥野誠義氏(4世紀中)、斉藤忠氏(4世紀後半)であり、崇神天皇古墳=陵(箸墓の主が崇神の娘の(やまと)迹迹(とと)日百襲(びももそ)(ひめ)とする)からの類推では森浩一氏、大塚初重氏、川西宏幸氏、関川尚功氏はいずれも4世紀半ば過ぎである。

 鐙はアジア大陸発、朝鮮半島経由で持ち込まれたものであるが、その中国では湖南省長沙市の墓から永寧2302)年銘の(せん)と多数の陶製の騎馬俑が出土した。その騎馬俑のうち3体に片足だけの鐙が付いていた。これが鐙の最古とされているが、乗馬の不得意な漢民族、特に農民が乗馬する際の道具としての発明品と考えられている。中国の302年は、三国時代の覇者魏を滅ぼした西晋の時代(280316年)の最中である、鐙の発明をこの頃とするのが妥当である。三国時代(220280)の英雄魏の曹操(絶影)、蜀の劉備(的濾)、諸葛亮(草慮)、関羽(赤兎)、張飛(玉追)、呉の孫権などが乗った愛馬には騎馬遊牧民族の馬と同様に鐙はなかった。この長沙市で発掘された磚からみて、箸墓古墳の木製鐙は4世紀初めのとの見解には相当無理があり、まして読売新聞の世界最古との報道は、邪馬台国畿内説者への読者迎合の記事(ミスリード)ではないか。

 馬具で明確に最古のものは、福岡市の老司古墳3号石室から出土したもので4世紀末から5世紀初頭であり、その出土品は金銅製鞍橋金具片、鐙、捩り金具である。

老司古墳以後ではいずれも5世紀初頭とされるが、福岡県朝倉市池の上古墳群6号墳の鉸具、鉄地金銅張鞍橋縁金具片、二連式の銜、捩り金具、福岡県宮若市西の浦古墳の捩り金具、同じく汐井掛遺跡200土壙墓の(しおで)、福岡県宗像市久原一区1号墳の全鉄製輪鐙、福岡市早良区吉武遺跡群・桶渡古墳からは木製鞍橋が出土している。

同じく5世紀初頭で畿内では、兵庫県加古川市の行者塚古墳の円形と長方形の鏡板付轡、大阪府堺市の七観古墳の鉄製轡、木造壺鐙金具、鞖、鞍金具、3環鈴、滋賀県栗東市の寺古墳群・新開1号墳の木心金銅張透鏡板輪轡、木心鉄張輪鐙、鉄板装木製鞍、馬鐸、3環鈴、辻金具、鉸具、蛇行状鉄器などである。

馬具の年代に関して大塚初重氏は「学者により意見が異なり、確定するのは難しい。古く見る学者は4世紀後半。大多数の学者は5世紀前半とみている」と述べている。

次に文献での馬について検討する。

『日本書紀』応神天皇15年の条に「秋8月、百済王遣阿直岐、貢良馬2匹」とあり、『古事記』には「百済国主照古王、以牡馬一匹、牝馬一匹付阿知吉師献上」とある。応神天皇の年代は不明であるが、百済の照古王とは第12代近肖古王のことでその在位は346375年である。ただし、この馬についての記事は『三国史記』「百済本記」には記載がない。

記紀の記述が疑われるが「広開土王碑」は400年前後の東アジアの動向を具体的の伝える第一級の資料とされる。この碑文に倭との関わりで馬が登場する。碑文と「新羅本記」、「百済本記」の記述を整理する。

 西暦

  広開土王碑

  新羅本記

  百済本記

 391

高句麗の属民であった百済、新羅が倭の臣民となった

 

靺鞨が攻めてきた

 392

 

高句麗が使者を寄こしたので、実聖を人質として出した

高句麗が兵4万を率いて北辺に来襲し、高句麗は用兵が巧で防戦できなかった

 393

 

倭が金城を包囲して、5日間囲みを解かなかった。城門を堅く閉じると倭は撤退したので、騎兵200と歩兵千で追走、大敗させた

 

 395

 

 

高句麗を撃たせたが、高句麗が兵千を率いて防戦したので、大敗、死者8000人を出した

 396

百済に親征して王城を包囲した。百済王は屈服した

 

 

 397

 

王は倭と修好して、太子の腆支を人質とて出した

 

 399

百済と倭が和通して、倭が新羅国境に迫ったので、新羅は高句麗に救援を求めた

 

 

 400

歩騎5万を派遣した。鎧兜1万個獲得、倭は大潰した

 

 

4世紀末に朝鮮半島に進出して倭は高句麗や新羅と戦った。相手の騎馬民族の高句麗は勿論、新羅も騎兵用の馬を所有していたので、当然倭軍も対抗上馬を所有していたであろう。倭は敗れたとは言え、朝鮮南部沿岸地方からの移住民と先進的な生産技術を受け入れた。このなかで馬に係る諸技術(製鉄、冶金、皮革、飼育など)が中心的な役割を果たしている。

 結論として現状の判断では、馬の「倭」への渡来地は北九州であり、その時期は4世紀中ごろを少々遡るであろう。塩部遺跡の歯の4世紀第3四半期を最も遅く見ると375年である。塩部遺跡から言えるのは、馬が北九州に渡来して後に急速に東国へ移動したのである。また今後の発掘次第では、馬の渡来が数十年早まる可能性は残されている。

   

 


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