全国の駒ヶ岳を知ろうシリーズ 16:甲斐駒ヶ岳
●基本データ
標 高 2967m
東経 138度14分12秒
所在地 山梨県北杜市白州・長野県伊那市長谷
山 系 赤石山地北部のピラミッド状の独立峰
地 質 甲斐駒・鳳凰花崗岩
●概要
甲斐駒ヶ岳は全国の駒ヶ岳の最高峰である。甲斐駒は縄文時代から登られていたが、宗教的には信州の諏訪郡上古田村の小尾権三郎(後の延命行者)が文化13(1816)年、3度目の挑戦で頂上を極めている。後に権三郎は駒嶽講を創設し、布教に努めた。
●縄文人の甲斐駒
甲斐駒の一等三角点(2965.6m)設置工事の際に偶然縄文時代の無紋土器が発見された。この土器は約4000~2400年前・縄文時代後期の遺物であり、日本最高所の発見でもある。縄文人が当時追っていたシカやイノシシはこんな高所には棲息していず、山頂までの道は原始林と岩壁である。縄文人は好奇心と石器のみで甲斐駒を極めたのである。
甲府盆地からはナウマンゾウ化石が甲府市(約8万年前)と山梨市(約2万8千年前)の2ヶ所で産出している。諏訪盆地の富士見町でもナウマンゾウの臼歯が産出している。また、伊那盆地南部でもゾウの脚跡化石が観察されている。ことにナウマンゾウ(約40~2万年前)と人類との関係は、1960年代の長野県信濃町野尻湖畔での発掘で旧石器時代の石器や骨器とともに発見されており、人類祖先の狩猟対象であったことが証明されている。甲斐駒周辺の、旧石器時代から縄文時代はロマンに満ち満ちていた。
●駒ヶ岳開闢(かいびゃく)
後に延命行者、弘幡行者、威力不動などの称号を受けた小尾権三郎の山頂を極める様子をその伝記は次のように記述している。
力を養い、糧を携えて再び深山に分け入り、樹を亘り、岩を攀り、峻岨身の毛もよだつ絶壁を伝い、岩下に臥し、飢餓と戦い、草根を食し、辛苦を重ねて、神仏の加護により、遂に頂上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり、時に文化13年6月15日、御歳正に二十歳の時なり。
権三郎はわずか25歳で死去するが、権三郎の開闢を支援した山田家の嘉三郎、孫四郎兄弟が駒嶽講の布教に努めた。今日、北杜市の横手と竹宇に権三郎の教えを引き継ぐ駒ヶ嶽神社がある。
●東京白稜会
「甲斐駒の白稜か白稜の甲斐駒か」と呼ばれるほどに山岳団体の東京白稜会は、甲斐駒ヶ岳登山のあらゆるルートの記録と甲斐駒の民俗、文化を追求してきた。東京白稜会は創立六十周年記念事業として、その成果を『甲斐駒ヶ岳事典』(2005年11月)にまとめ出版した。
参考文献:『全国駒ヶ岳の歴史と民俗』
『甲斐駒ヶ岳事典』
(写真説明)(上)北杜市側からの黎明の甲斐駒ヶ岳(提供:つくばのメタボさん)
(下)戸台からの甲斐駒ヶ岳(提供:化石片人さん)
お問い合わせ等は、駒ヶ岳ファンクラブ事務局 komagaku@kih.biglobe.ne.jp
伊那谷から見える甲斐駒、その頂は夕日に映えて白く、三角形で鋭く天を突く鏃のように見える。 伊那・駒ヶ根では子供の頃から東駒と教えられた。西駒(木曽駒)に対する愛称である。
この東西駒を同時に眺められるのは、西駒のある中央アルプスの山麓のわずかな地域〈伊那市西北部から箕輪町の一部分)であると思われる。
駒ヶ根市では宝剣岳や前岳を見ることはできるが、木曽駒ヶ岳本岳を見ることは、天竜川東の一部分の山地からでないとできない。04/21青梅にて
by 化石片人 (2009-04-21 23:55)